京都府舞鶴市の山奥にある小さな山寺。
今は人里離れてひっそりとたたずむお寺だが、その歴史は遠く飛鳥時代にさかのぼる。
毎月8日はお薬師様の日。このブログは毎月8日にだけのんびりと更新するブログです。
「ご利益」(ごりやく)とは神仏の恵みのこと。このブログではお薬師様の恵みを皆様にお伝えしていきたいと思います。
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風邪予防の御利益
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2011/12/09 21:47
午前中にはみぞれが降り、午後には雪が落ち始めました。
いよいよ本格的な冬の到来です。
皆様、風邪などひかれませんように!
風邪予防のおススメその1は生姜を摂ること。
生姜は代謝をあげてくれます。
健康にもダイエットにも良いと生姜を配合したいろんな食品をみかけます。
我が家の冷凍庫にはいつも生姜が入っていて、毎日のように、すりおろしてミルクティーに入れて飲んでいます。
小鍋にミルクティーと黒砂糖少々、すりおろした生姜を入れて飲むと身体がポカポカしてきます。
生姜は漢方薬の様々な処方の半数に含まれているという説もあります。
漢方では生の生姜である「生姜」と乾燥させた生姜である「乾姜」を区別しているのも面白いことです。
生生姜は身体の浅いところを温め、乾燥生姜は身体の深いところを温めるとされています。
出来るだけ生姜を摂るということも心掛けたいものです。
いろんな健康食品について調べたり、自分でも試していますが、安価で手に入りやすく、身体に幅広く良い影響を与えるもの…ということを考えると、取り合えず生姜が最もスコアが高い気がします。
風邪の引き始めや寒い時期には是非、生姜を摂りたいものです。
もうひとつ風邪のひき始めに効果的なのは肩甲骨の間にある身柱というツボの周辺に使い捨てカイロを貼ることです。(身柱の正確に位置はネットなどで御調べ下さい)これはかなり効く気がします。
風邪気味の時に一度お試しください。但し低温やけどに御注意。睡眠中は避けてください。
それともう1点。
私の経験ではストレスから風邪になることが結構あるようです。
日常生活でいろんなストレスは避けられませんが、自分の心がとても寛げる、リラックスできるという時間を持つことがとても大切だと思います。
笑うこと、自分の好きなことに心を傾けること、楽しい時間を持つこと…
これらができなくなったら要注意です。
身体の管理と同時に心の管理も忘れずにいたいものです。
弓は張りすぎても、緩め過ぎても用を為しません。
適度に調節して遠くまで矢を飛ばせる弓になりましょう!
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『山寺のんびり日記』http://d.hatena.ne.jp/burogubou/】
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多禰寺永代供養塔開眼 多禰家墓廟開眼 本尊特別開帳法要のお知らせ
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2011/09/29 22:01
平成23年10月7日13時より
【式次第】
枚岡神社宮司 (熊野権現 熊野本宮大社九鬼家隆様名代)、多禰神社宮司
により神道慶事
御神楽 鈴と扇子の舞い
多禰寺本堂にて秘仏本尊薬師瑠璃光如来開帳と開眼法要
多禰家墓廟開眼の儀
多禰寺永代供養塔開眼の儀
宝物庫拝観
本堂にて慶祝の儀
大変稀な本尊御開帳の機会ですのでお気軽に御参拝下さい。
心の掃除 心を観る
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2011/08/26 23:08
夕刻まで多禰寺で留守番。
普段暮らしている金剛院に戻ったらとても蒸し暑いのでびっくりした。
多禰寺はまことに爽快な気候だったからである。
標高でいうと300メートルほどしか違わないのだが、体感温度が全然違う。
お盆に何軒かの檀家さんから自家栽培の野菜や果物を頂いたので先日、京都で買ったささやかなおみやげを持っていった。
ところが…
1軒めでは立派なまくわうりを5個と市販の倍くらいありそうな胡瓜を3本頂いた。
2軒目では西瓜を2個も…
…貰いすぎ?(苦笑)
農家の方のこういう気前の良さ、鷹揚さは愉しいものである。
物を貰ったから嬉しいというのではないが、こういう方々とお付き合いしていることの有難さを感じる。
長い間の都会暮らしを経て当地に帰って来た時は果たして自分がやっていけるか心配したものだが、いつの間にか8年あまりの時間が過ぎている。
世の中が大きく変わろうとしている時に、精神的なものへの拒絶と渇望の両極端の時代に、日本で世界的に類を見ないような無神論や唯物論の盛行するなかで、仏教に帰依していくというのはどういうことなのだろうか…と考えることがよくある。
本日も参拝は3組ほどだったので、参拝者に応対する以外は、取りとめないことを考えたり、最近、気に行っている宗教書を少し読んだり、瞑想したり。
月に数日こういう日があるが、なかなか愉しい時間である。
お盆の棚経ではいろんなお宅を回ったのだが、少し気になったのは古いお札を置いてあるお宅が結構多かったことである。
お札は1年経ったらお寺や寺院に納めてお焚きあげしてもらうのが原則である。
お仏壇の中にいろんなものが沢山詰め込まれているのもどうかな…という気がする。
あまりいろんなものを詰め込まないほうがいいだろう。
相変わらず、風水が流行していていろんなことを言う人がいるが、風水の基本、というか風水以前に大事なことは掃除、整頓、処分である。
もっとも私もよくどーでもいいものを買ってきて家人に笑われたり、呆れられたりするが、この際、自分のことは棚に上げさせて頂く…
掃除をするとすっきりするというのは当たり前だが、心や身体にもかなり大きな影響がある。健康とか開運ももちろんである。
仏教では作務、特に掃除が重視されるがむべなるかなである。
そして一番、大事なのは心の風水ではないかなと思う。
掃除や整理、処分が風水の大前提なら、心に余分なものをため込まないというのが心の風水の基本だろう。
普通の掃除とちがって心の中の掃除は容易ではない。
自分が懸命にしがみつき、ため込んでいるものを、そこにただあるだけのものと思ったり、あって当たり前のものを認識したりしてしまう。
自分が狭い心で作り上げた価値基準を絶対不変のものと思ってしまったり、
快不快という至極単純で生理的な反応を心の働きと勘違いしたり…
仏教には自分の心も観るというプロセスが含まれている。
あるいは強制的に何かに没入して、普段の自分を一端、シャットダウンしてしまうテクニックもある。
何千年にもわたってそんなことを試行錯誤してきたわけである。
現代文明の中でエゴというものがどんどん肥大している気がする。
日本にように倫理観や道徳観の薄れつつある社会ではなおさらである。
自分のこころを観るというのは、難しく、時に苦しく、また甘美なものである。
一人でも多くの方が仏教に触れて自分の心を探求されることを願ってやまない。
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普段暮らしている金剛院に戻ったらとても蒸し暑いのでびっくりした。
多禰寺はまことに爽快な気候だったからである。
標高でいうと300メートルほどしか違わないのだが、体感温度が全然違う。
お盆に何軒かの檀家さんから自家栽培の野菜や果物を頂いたので先日、京都で買ったささやかなおみやげを持っていった。
ところが…
1軒めでは立派なまくわうりを5個と市販の倍くらいありそうな胡瓜を3本頂いた。
2軒目では西瓜を2個も…
…貰いすぎ?(苦笑)
農家の方のこういう気前の良さ、鷹揚さは愉しいものである。
物を貰ったから嬉しいというのではないが、こういう方々とお付き合いしていることの有難さを感じる。
長い間の都会暮らしを経て当地に帰って来た時は果たして自分がやっていけるか心配したものだが、いつの間にか8年あまりの時間が過ぎている。
世の中が大きく変わろうとしている時に、精神的なものへの拒絶と渇望の両極端の時代に、日本で世界的に類を見ないような無神論や唯物論の盛行するなかで、仏教に帰依していくというのはどういうことなのだろうか…と考えることがよくある。
本日も参拝は3組ほどだったので、参拝者に応対する以外は、取りとめないことを考えたり、最近、気に行っている宗教書を少し読んだり、瞑想したり。
月に数日こういう日があるが、なかなか愉しい時間である。
お盆の棚経ではいろんなお宅を回ったのだが、少し気になったのは古いお札を置いてあるお宅が結構多かったことである。
お札は1年経ったらお寺や寺院に納めてお焚きあげしてもらうのが原則である。
お仏壇の中にいろんなものが沢山詰め込まれているのもどうかな…という気がする。
あまりいろんなものを詰め込まないほうがいいだろう。
相変わらず、風水が流行していていろんなことを言う人がいるが、風水の基本、というか風水以前に大事なことは掃除、整頓、処分である。
もっとも私もよくどーでもいいものを買ってきて家人に笑われたり、呆れられたりするが、この際、自分のことは棚に上げさせて頂く…
掃除をするとすっきりするというのは当たり前だが、心や身体にもかなり大きな影響がある。健康とか開運ももちろんである。
仏教では作務、特に掃除が重視されるがむべなるかなである。
そして一番、大事なのは心の風水ではないかなと思う。
掃除や整理、処分が風水の大前提なら、心に余分なものをため込まないというのが心の風水の基本だろう。
普通の掃除とちがって心の中の掃除は容易ではない。
自分が懸命にしがみつき、ため込んでいるものを、そこにただあるだけのものと思ったり、あって当たり前のものを認識したりしてしまう。
自分が狭い心で作り上げた価値基準を絶対不変のものと思ってしまったり、
快不快という至極単純で生理的な反応を心の働きと勘違いしたり…
仏教には自分の心も観るというプロセスが含まれている。
あるいは強制的に何かに没入して、普段の自分を一端、シャットダウンしてしまうテクニックもある。
何千年にもわたってそんなことを試行錯誤してきたわけである。
現代文明の中でエゴというものがどんどん肥大している気がする。
日本にように倫理観や道徳観の薄れつつある社会ではなおさらである。
自分のこころを観るというのは、難しく、時に苦しく、また甘美なものである。
一人でも多くの方が仏教に触れて自分の心を探求されることを願ってやまない。
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大きな願いを抱く
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2011/07/09 00:47
暑中お見舞い申し上げます。
早々と近畿地方の梅雨も明けた模様。
皆様どうか御自愛くださいませ。
日本全体を覆う空気が変わった気がします。
新しい流れが生まれています。
危機感のようなもの、覚醒のようなもの、親愛のようなもの、現実を直視しようというもの、古いものに固執しようとするもの…
震災と原発を契機として日本が新しい方向へ向かいつつあるように思います。
願わくば、為政者の方々が大きく方向を間違えないことを祈るばかりです。
この点は相当心配ですが(笑)
古代仏教のひとつの使命は国家と国民の安寧を祈ることでした。
戦後、国家を否定するという思想の台頭によって仏教のそうした役割はとてもネガティヴにしか評価されなくなりました。ですが、こうした時代にあってもう一度、寺院も一個人も国家の安寧と繁栄を祈念する時がきたのではないでしょうか。
祈るということはとても現実的な行為です。
多くの方にとっては祈るというのはとても消極的な、非現実的な行為です。
もし現実に対して何ら手段を講じないで、ただ祈るというのであればそれはとても消極的な祈りでしかありません。
現実に積極果敢に立ち向かい、同時に至心に祈ることで大きな力が得られると思います。
残念ながら日本は無神論や宗教否定が罷り通るようになってしまいました。
いつだったか理系の有名な先生が「霊魂が存在しないことを証明した」と堂々と著書に書いておられて笑ってしまいました。
当山は真言宗で密教の一派です。
密教の魅力のひとつは現生を強く肯定して、現生としての存在を乗り越えようとするところではないかと思います。
今、生きていることの喜びも哀しみも、混沌も、希望も、不安も、全てを呑み込んでもっと大きなところにつなげてゆく。
現実を肯定しつつ、それを乗り越えて行く。
それは巨大な混沌に覆われている日本には必要な考え方ではないかと思います。
神社仏閣に足を運んだ時、或いは自宅の仏壇で手を合わせる時、日本が平和であること、世界が平和であることを祈ってほしいと思います。
そうした個人の思いは積み重なって、日本や世界の運命に大きな力を及ぼします。
戦後の日本人は個人を肯定するあまり、国家や国民全体の、或いは隣人の幸福というものを蔑にしてきました。
現在の大きな危機はそうしたマイナスの想いのひとつの大成なのではないかと私は思っています。
自分個人の願いというものがあることは当然ですが、世の中全体の平和や安寧を願う大きな願いを心に抱く時、実は個々人の願いも叶いやすくなると思います。
なぜなら世界の平和と安寧を願うことは神仏の思いそのものであり、私達がそうした思いを抱くことは、神仏の心に波長を合わせ、ひとつになることに他ならないからです。
これからもさらに混乱は続くでしょう。
大きな願いを心に抱いて、強く、揺るぎの無い生き方をしたいものです。
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「解釈論的仏教論」の試み
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2011/06/09 20:37
相変わらず大震災と原発問題で政府の対応は混乱…
菅さんが「最小不幸社会」と言ったことにかけて「宰相不幸社会」なんて言葉も。
舞鶴も関電の原発から至近距離にあるのでこれからの行政の対応は大いに注目される。
来年度には避難計画が発表される見通しとのこと。
「原発銀座」と言われる若狭地域は古くから文化が栄えた地域である。
「海のある奈良」という異名を持つ小浜を始め、古刹や文化財が多い。
避難に際して人命優先は当然だが、文化財の搬出についても配慮が必要だろう。
原発の影響でこの地域が半永久的に立ち入りが出来なくなったら、文化的損失は計り知れない…
関電も行政もこうした問題について考えてもらいたいところである。
最近、顕著なのが釈尊とその弟子を中心とした原始仏教への関心である。
(「原始仏教」という言葉はあまり適当ではない気がするので私としては「原初仏教」くらいにしてほしいのだが)
この原始仏教を理想として、現代仏教の批判をする方が絶えないが、あまりにも勝手な理想像を釈尊に投影した話が多い。贔屓の引き倒しである。
釈尊が人類最高の精神性を持たれた素晴らしい存在だということは確信しているし、その遥か遥か末裔にいることの感謝や喜びも尽きない。
だが、釈尊の言葉として遺されたものが現代にどれくらい汎用できるか吟味することもやはり必要だろうと思う。
何より原始仏教の実態がどのようなものであったのかについても不明な点が多い。
有名なダイバダッタとお釈迦様の争いを見てもダイバダッタがより原理主義的に教団を運営しようとするのに対し、釈尊はむしろ現実的に対処されようとした節がある。
そんなこともひっくるめて、釈尊が何をどのように説かれたのか、実際にどのように教団を運営されていたのかについてはあまりに不可知な部分が多いということである。
釈尊が無所有を説いて、無一物で墓場に住んでおられたとされるかと思えば、釈尊やその弟子達が大変に富貴だったとする経典もある。
お釈迦様はこう仰った!と自信満々で語ることが悪いとは思わないが仏教に含まれる概念を現代的に解釈して、今の私達に役立てられないかと…ということを少し考えている。『解釈論的仏教論』とでもいうべきか。
実際のお釈迦様についてではなくて、今日に伝わる釈尊の言動や経典を貴重な精神文化として再認識し、再活用するということである。
仏教の出発点は煩悩を去ることである。
そして人間の根本的な煩悩は三毒とよばれる。
三毒とは次の3つである。
「貪」(とん) 強く求める心。貪る心
「瞋」(じん) 怒りの心。
「癡」(ち) 真理に対する無知の心
最初の「貪」「瞋」を次のように考えてはどうかと思う。
「貪」→心が何に強く惹かれるか、何を<快>とするか。
「瞋」→心が何を強く拒絶するか、何に怒りや<不快>を感じるか。
実は私達の心の傾向性、特徴は、この2つの欲求に大きく集約されるのではないかという気がするのである。
そう考えるとこの三毒の教えというのはやはり非常に深いものを含んでいるように思う。
3つめの「痴」は「真理に対する無知」とされるが、これは非常にわりにくい。
別の見方をすれば「自分に誤りがあることを認識できないこと」と読み変えられるのではないだろうか。
ものすごく砕いて表現するなら「自己を客観化できない」ということであり、これも自己認識の問題とリンクしているように思う。
現代の私達が仏教を手掛かりに自己改革を図るとするなら三毒というのは自己認識の手段であり、自己認識の在り方を探る要点と言い代えられないだろうかと考えている。
最初の出発点は「自己とは何か」という問いだが、釈尊の説かれた三毒の教えにはその重要な手掛かりが含まれているように思う。

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菅さんが「最小不幸社会」と言ったことにかけて「宰相不幸社会」なんて言葉も。
舞鶴も関電の原発から至近距離にあるのでこれからの行政の対応は大いに注目される。
来年度には避難計画が発表される見通しとのこと。
「原発銀座」と言われる若狭地域は古くから文化が栄えた地域である。
「海のある奈良」という異名を持つ小浜を始め、古刹や文化財が多い。
避難に際して人命優先は当然だが、文化財の搬出についても配慮が必要だろう。
原発の影響でこの地域が半永久的に立ち入りが出来なくなったら、文化的損失は計り知れない…
関電も行政もこうした問題について考えてもらいたいところである。
最近、顕著なのが釈尊とその弟子を中心とした原始仏教への関心である。
(「原始仏教」という言葉はあまり適当ではない気がするので私としては「原初仏教」くらいにしてほしいのだが)
この原始仏教を理想として、現代仏教の批判をする方が絶えないが、あまりにも勝手な理想像を釈尊に投影した話が多い。贔屓の引き倒しである。
釈尊が人類最高の精神性を持たれた素晴らしい存在だということは確信しているし、その遥か遥か末裔にいることの感謝や喜びも尽きない。
だが、釈尊の言葉として遺されたものが現代にどれくらい汎用できるか吟味することもやはり必要だろうと思う。
何より原始仏教の実態がどのようなものであったのかについても不明な点が多い。
有名なダイバダッタとお釈迦様の争いを見てもダイバダッタがより原理主義的に教団を運営しようとするのに対し、釈尊はむしろ現実的に対処されようとした節がある。
そんなこともひっくるめて、釈尊が何をどのように説かれたのか、実際にどのように教団を運営されていたのかについてはあまりに不可知な部分が多いということである。
釈尊が無所有を説いて、無一物で墓場に住んでおられたとされるかと思えば、釈尊やその弟子達が大変に富貴だったとする経典もある。
お釈迦様はこう仰った!と自信満々で語ることが悪いとは思わないが仏教に含まれる概念を現代的に解釈して、今の私達に役立てられないかと…ということを少し考えている。『解釈論的仏教論』とでもいうべきか。
実際のお釈迦様についてではなくて、今日に伝わる釈尊の言動や経典を貴重な精神文化として再認識し、再活用するということである。
仏教の出発点は煩悩を去ることである。
そして人間の根本的な煩悩は三毒とよばれる。
三毒とは次の3つである。
「貪」(とん) 強く求める心。貪る心
「瞋」(じん) 怒りの心。
「癡」(ち) 真理に対する無知の心
最初の「貪」「瞋」を次のように考えてはどうかと思う。
「貪」→心が何に強く惹かれるか、何を<快>とするか。
「瞋」→心が何を強く拒絶するか、何に怒りや<不快>を感じるか。
実は私達の心の傾向性、特徴は、この2つの欲求に大きく集約されるのではないかという気がするのである。
そう考えるとこの三毒の教えというのはやはり非常に深いものを含んでいるように思う。
3つめの「痴」は「真理に対する無知」とされるが、これは非常にわりにくい。
別の見方をすれば「自分に誤りがあることを認識できないこと」と読み変えられるのではないだろうか。
ものすごく砕いて表現するなら「自己を客観化できない」ということであり、これも自己認識の問題とリンクしているように思う。
現代の私達が仏教を手掛かりに自己改革を図るとするなら三毒というのは自己認識の手段であり、自己認識の在り方を探る要点と言い代えられないだろうかと考えている。
最初の出発点は「自己とは何か」という問いだが、釈尊の説かれた三毒の教えにはその重要な手掛かりが含まれているように思う。
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