京都府舞鶴市の山奥にある小さな山寺。
今は人里離れてひっそりとたたずむお寺だが、その歴史は遠く飛鳥時代にさかのぼる。
毎月8日はお薬師様の日。このブログは毎月8日にだけのんびりと更新するブログです。
「ご利益」(ごりやく)とは神仏の恵みのこと。このブログではお薬師様の恵みを皆様にお伝えしていきたいと思います。
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お盆の季節に思う
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2010/08/08 23:13
今年はお盆について書かれた小冊子を檀家さんに配布しようと思っている。
盆おどりの項を読んでいたら、盆おどりの起源は空也上人の念仏踊りであると書かれていて、六波羅蜜寺の空也上人像を思い出した。まだまだ知らないことが多いのである。もっとも
『wikipedeaによれば「炭坑節」(福岡県民謡)「東京音頭」「大東京音頭」(東京)「河内音頭」(大阪府)…』
などとい書いてあって少し笑ってしまった。
「広辞苑によれば」くらいならいいが、wikiという誰が書いたのか良くわからないないものを引用するのことが少しおかしかったのだ。
先日、地元の新聞記者さんと話していた時も
「wikiで調べたんですが」
と真顔で言われたので、少し困ってしまった。「新聞記者がWIKIで知らべたらイカんでしょう」と言ったら先方も苦笑していた。
いよいよお盆の本格的な準備の時期に入った。
お盆の本義は先祖供養である。
そして祖先を祀ることはとても意味がある。
私たちがこの世でそれなりの幸福を得たいとか、大きな災難に逢いたくないと思ったら、やはり先祖供養は必要である。
ただあまりこういうことを言いたくないという気持ちもある。
なぜならこういう話は必ず尾ひれがついて、先祖供養をしないと先祖に祟られるとか、逆に、先祖供養をしているのに悪いことが続くのは、先祖供養そのものに意味がないからだ…みたいな話になるからである。
先祖供養にもいろんな形がある。
必要な時に然るべき供養をしていないとか、先祖供養をしていても、普段の生き方に大きな間違いがあったら、やはり幸せにはなれないし、不幸も避けられない。
だが、先祖の中には私たちを見守り、助けてくれ先祖もいるし、そうした先祖に感謝することでそうした加護が強められるという意味は大きい。
また大勢いる先祖の中には迷っている方もいて、施餓鬼をはじめとする先祖供養によってこうした方を助けることは、結果的に自分自身の積徳として人生に必ずプラスの力をくれるのである。
まずは、それぞれ宗派のふつうの仏事をふつうに行うことが出発点ではないかと思う。或いは菩提寺で行事があればできるだけ参加することが大事である。
お寺の側も顔を合わせる機会が多ければいろんなアドバイスをしてあげられることも多いが、全然、お寺に来てもらえないのではアドバイスのしようがなくて時々残念に思うことがある。
お盆は棚経と施餓鬼が2大行事である。
近年、猛暑になっているので炎天下の棚経はやはり大変だが、去年、ある檀家さんの棚経に行ったら、「おじいさんに似ていますね」と言われた。祖父は私が生まれる前に若くして亡くなったので、祖父の顔は記憶にないのである。
祖父の時代は棚経も歩いて一軒一軒回っていたのだからさぞ大変だったろうと思う。
私にとっての仏事というのは父や祖父のしてきたことを受け継いでいくことなので、そこの自分の家のルーツのようなもの、家族の歴史のようなものを同時に感じることが多い。
田舎の風景はそんなに大きく変わっていないので、田舎道を歩きながら檀家さんの家に向かう時に、同じ風景の中を父も祖父も歩いたのだと思うことが時々ある。
伝統を守るということは、伝統を変えることではないかと思う。
京都に住んでおられる信者さんのお宅にお参りしたら、蝋燭型の灯明が置いてあった。
京都は仏壇の灯明から火事になる家があるので、消防署から灯明を電気に換えるよう指導されたのだという。
仏事でも本来なら蝋燭や線香の火を絶やさないという地域も多いが失火を防ぐためにはこうした伝統も考え直さざるをえない。
何を変え、何を引き継いでいくかというのはなかなか難しい。
うっかりすると一番肝心なものを亡くしていることのなりかねないからだ。
仏事の中心は心を込めるということに尽きるが、世の中がこうも忙しく、目まぐるしくなると、心そのものについて考える余裕がなくなる。
せめてお盆くらい、ご先祖様の供養をとおして自分の心に向かい合いたいものである。
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ベンツに乗った仏様
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2010/07/08 22:02

普段は金剛院というお寺にいることが多いのだが、毎月数日は多禰寺に出かけて、お参りの方の相手をしたり、境内の掃除をしたりする。山の中の静かなお寺なので、これからのことをいろいろ考えたりして、なかなか楽しい時間を過ごしている。
先日、京都方面から多禰寺に来られたお参りの方とお話していたらこんな話を聞いた。
京都の或る大本山に行ったら、中から黒塗りのベンツが4台出てきて、「その筋の人」かと思ったら管長以下の偉いお坊さん達が乗り合わせていたとのこと。そんなお坊さんのお説法は聞きたくないですねとその方は笑って言われた。
仏教の長い歴史の中で、仏教が弾圧されたり、貶められたりすることもあった一方、権力者や富裕者の帰依を受けて栄華を誇った時期や地域もある。
お釈迦様自身も高貴な身分の出自で、ご自分の教団を持たれてからも、権力者や富者の援助を受けられた。
一般的に言えば宗教家は富貴よりも質素であるべきだと思うし、お釈迦様自身も僧侶には徹底した無財を戒律とされた。
ただ日本には金持ちを必要以上に卑しむ風があるが、自分の才覚や人に勝る努力で築いた財ならなんら恥じることはないではないか。
住職はいつも汚れた作業着を着て軽トラックに乗っているが、だからといってベンツに乗っているお坊さんより偉いかといえばそうとも言い切れない。作務は大好きだが、人前で話したりすることには殆ど興味がない。これもちょっと困ったことではある…昨年もある京都の管長さんの法話を拝聴したが、堂々たるものだった。
軽トラックに乗っていても、ベンツに乗っていても、そのお坊さんなりの役割があるはずである。
質素な生活に甘んじていてもただ生活に追われているだけのお坊さんもいるかもしれない。
ベンツに乗っていてもそのことに執着していなければ別にいいのではないだろうかも思う。
貧しい生活を楽しむこともでき、富貴な立場にあってもそのことにことさら心を囚われなければそれでいいのではないだろうか。
何を纏っているかではなく、その中身が問われるのが
だが豊かな衣食住に恵まれると、心はとたんに囚われ始める。そのこともまた事実である。
私の場合は子育てに追われているかもしれない。
それもまた修行と捉えるべきか…
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歴史の風に吹かれて
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2010/06/11 21:55
毎月8日の更新の当ブログですが、地元仏教会の巡拝会のため更新が遅れましたことをお詫びもうしあげます。
先日、地元の公民館で歴史講座が開かれました。私もとても参加したかったのですが、所用で参加できませんでした。
この講座に参加された信者さんに話を伺うと、この近辺には古代に大量の古墳が造営されており、それが5世紀から6世紀にかけて忽然と姿を消すのだという…
大変に興味深い話だと思いました。
多禰寺の創建は飛鳥時代に遡り、聖徳太子の異母弟である麻呂子親王が両丹を支配した豪族の叛乱を平定した際に七仏薬師を祀ったのが当山の由来とされているからです。
多禰寺創建の時期と、古墳の消滅は深いつながりがあるのではないかと思われます。
この地域は大陸との交易、海運、製鉄、製塩などで大変に豊かだったとも考えられます。案外、鬼といわれるものも山賊や反乱者だったのではなく、地方で平和に豊かに暮らしていた人達かもしれません。
また麻呂子親王の豪族平定の経緯は後世、大江山の鬼退治の伝説に形を変えたともいわれています。
京都新聞に「丹波・丹後の鬼伝説の地を訪ねて」というシリーズが連載されており、本日は福知山の堀にある一宮神社(いっきゅうじんじゃ)が取り上げられていました。
この一宮神社のある堀を中心とした福知山西部一帯を「宗部郷(そがべごう)」と呼ばれているそうである。
「宗部(そが)」というのは「蘇我」を連想させる言葉である。
蘇我氏は聖徳太子や麻呂子親王を支えた大和朝廷の大豪族である。ここにも麻呂子親王との関わりが推定される。
福知山に隣接する兵庫県丹波市の市島町には大変に多くの麻呂子親王伝説がのこされており一度訪れてみたい場所のひとつである。
今はどちらかといえば寂れた感のある京都府北部は昔、歴史の大きな展開の舞台となった時期があったのかもしれない。
私は地元の方がそれぞれの地誌を調べ、学ぶことはとても大切なことなのではないかと思っている。
地誌というのはそこに住む人間のアイデンティティにすらつながりうるのではないかという気がする。
本日の京都新聞にはもう一点興味深い記事が載っていた。
京都精華大学の石川九楊氏の「加速する日本語の崩壊」という論評である。
石川氏は最近はやりのパフォーマンス的な書道を「ダンス書道」「筆踊り」とバッサリ…
1970代半ばまで<書くことは大切>という暗黙の合意が社会にあったのにそれが急速に失われ日本の崩壊が加速していると嘆いておられる。
面白い指摘があった。
7世紀半ばの白村江の戦いでの敗北の後、日本国を建てた原動力は国を挙げての書字・写経運動であった。また日本が近代に欧米列強の植民地化を免れたのは蓄えた江戸漢語の力で西欧語を漢語に翻訳し、吸収しえたからであると説かれている。
(日本が近代化に成功した文化的要因としては算盤で微積分まで計算したという和算などの理数的文化力の蓄積も無視できないだろう)
古代に書字・写経運動があったというのは初耳。
戦後の教育と、さらにIT化による<書く>ことの喪失は古代以来の日本文化の断絶をもたらすのかもしれない。
そして<書く>ということだけでなく仏教そのものの持つ哲学性、倫理性、道徳性などなどもやはり国家建設の黎明期、或いは日本の近代化にあたって少なからぬ役割を果たしたのではないかという気がする。
お寺に住んでいると、地域に積み上げられてきた歴史の膨大さ、既に失われてしまった歴史の大きさに不思議な感慨に打たれることがある。
今こうして生きている私という存在はなんと大きな積み重ねの上に立っているのだろうかと。
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『早くこちらにいらっしゃい!』
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2010/05/08 01:12
本日は西国観音霊場の二十九番札所である松尾寺で卯月八日の法要があった。
昨日は雨の降る寒い一日だったが、本日はうってかわって素晴らしい好天である。
松尾寺は近郷近在で知ら無い者の無い名刹であり、年に一度の大きな法要なので参詣者は全国から集まる。
卯月八日の法要では雅楽の演奏に合わせて、仏の面を着けて舞う『仏舞』が行われることで知られている。
私も昨年からこの法要に出仕させて頂いているが、全国的に見ても稀有とされる伝統行事を間近に見られるのは有難いなあという気持ちで一杯である。
「仏様が舞われる」というとどんなイメージを抱かれるだろうか?
その所作はとてもシンプルである。手を上げて招くような動作や印を結ぶ所作、それから両手で糸を手繰るような動作などが繰り返される。
金色の大きな仏様の面を着けた人々がゆったりと舞う姿はとても美しい。
私には仏様が私たち衆生を仏の世界に差し招き、手繰りよせてくださるように見えた。
『早くこっちへいらっしゃい!』
そんな優しい仏様の声が聞こえたような気がした。
<彼岸>というのは仏様の世界であり、この世は<此岸>であるとされる。
ところで仏像の手のひらには水かき状のものが付いていることがある。
ある人が面白いことを言っていた。
なぜ仏様の手のひらに水かきがあるかというと…此岸から彼岸に向かって泳いで渡るといつの間にか水かきができているのだというのである。真偽のほどは定かではないが…
彼岸と此岸の間にはどれほどの隔たりがあるのだろうか。
『それ仏法遥かにあらず 心中にして即ち近し』
空海の「般若心経秘鍵」の中にある有名な一節で私の大好きな言葉である。
仏様というのが遥かかなたの存在ではなく、正に自分の中に在る…といわれても
この世で悩んだり苦しんだりしている私たちにはピンと来ないのは当たり前かもしれない。
私たちの悩みや苦しみと、お大師様のお言葉には大きな隔たりを感じるかもしれない。
私自身がいろんな感情に捉われていることが多いので僭越といえば僭越だが、お大師様のお言葉にはとても大きな魅力を感じるのである。
そして今から1200年以上も亡くなった方の言葉に励まされるというのはとても不思議な気がする。
悩み苦しみのある私たちの心が真実なのか、悩みや苦しみのない仏様の世界が正に在るということが真実なのか。
その答えは私自身の中にはあるのだが、誰にでも納得して頂けるように説明できる自信は残念ながらまだ無いのである。
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白井貴子さんの話
テーマ:【お薬師様のご利益ブログ】
2010/04/08 23:23
今年は桜の開花が早いようである。
与保呂川の川沿いに桜が植えられていて、満開の風情だった。
本日は白糸神社の植木市で苗木を少々購入。
苗木というのは植えても土質に合わなかったり、手間を惜しんだりするとたちまち枯れてしまう。実際に活着するのは3割くらいだろうか。
本当は萩が欲しかったのだが在庫が無かったので百日紅と野村もみじ苗木を購入した。ご主人は朴訥でまことに人の良さそうな人物である。去年一度あっただけの私の顔を覚えておられたのには少々びっくりした。値段も良心的なので私はとても気に入っているお店である。
多禰寺には住職の植えた萩が200株以上あるのだが、殆どが白色の萩である。少し赤系の萩を植えたらお互いに引き立つと思うのだが思うように増やせない。
先日も一番目立つところに植えた萩を誰かが持ち去ってしまい、少々がっかりしたが、気を取り直してまた植えようと思っている。
山寺だと誰かに花木を持っていかれることは日常茶飯事で、こうしたことには慣れているのだが、気持ちが少々凹んだ…
花というのは人を癒す力があるのではないだろうかと思うことがある。
だから境内にもっともっと花木を増やしたいと思うのだが、実際には苗木を集めるのも、育てるのもなかなか大変な作業である。
心にわだかまりがあったり、心が暗く落ち込んだ時に花や自然に心を癒されることがある。
あるラジオ番組に歌手の白井貴子さんが出演しておられた。
白井貴子さんは私達の年代にはとても懐かしい方である。白井貴子さんはある時期から精神的にとてもつらいことがあって本当に心がくじけそうになった時に一輪の花が咲いているのを見て、それで心がふっきれたと仰っていた。自分もこの花のように生きていけばいいんだ…と白井貴子さんは思われたそうである。
細かな事情は語られなかったが、すごく共感できる話だった。
本山に居たころ、境内の掃除をしていた。
季節は多分、今頃だったと思う。本山での生活というのは予想以上に厳しくて、失敗が続くと気持ちが凹んでしまうことも多かった。
その時に地面に小さな小さな花が咲いていた。
その花はその辺り一面に咲いている雑草の一株に過ぎなかったのだが、直径が僅か数ミリしかないような花を見たときになぜか猛烈に感動したのである。
そのとても小さな花から凛然とした気迫のようなものが感じられたのである。
それに圧倒されるような思いがしたのである。
自然というのは本当に偉大だなと思うことがある。そして自然の背後にもっと深い何かを感じるときもある。
ある時、仏様ということについて考えていて、自分なりにひとつの考えが浮かんだことがある。その時、車で走っていたのだが、視線を上げると青い空が広く見えた。
その途端に自分の考えていた仏様というものが木っ端微塵になるような気がしたそれほどその時に見た空が大きく、深く見えたのである。自然の背後には人間の浅い知恵を凌駕する何かを感じることがある。そしてそれに触れたいと思う。
心が挫けそうになった時に是非自然に心を向けてほしいと思う。
野辺の花でも、青空でもいい。夜なら星空でもいい。
自然の広さと深さに心を向けた時に心の中でわだかまっていたものがスッと消えていくことがある。
そんな体験を少しでも多くの人にしてほしいと思う。
。
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与保呂川の川沿いに桜が植えられていて、満開の風情だった。
本日は白糸神社の植木市で苗木を少々購入。
苗木というのは植えても土質に合わなかったり、手間を惜しんだりするとたちまち枯れてしまう。実際に活着するのは3割くらいだろうか。
本当は萩が欲しかったのだが在庫が無かったので百日紅と野村もみじ苗木を購入した。ご主人は朴訥でまことに人の良さそうな人物である。去年一度あっただけの私の顔を覚えておられたのには少々びっくりした。値段も良心的なので私はとても気に入っているお店である。
多禰寺には住職の植えた萩が200株以上あるのだが、殆どが白色の萩である。少し赤系の萩を植えたらお互いに引き立つと思うのだが思うように増やせない。
先日も一番目立つところに植えた萩を誰かが持ち去ってしまい、少々がっかりしたが、気を取り直してまた植えようと思っている。
山寺だと誰かに花木を持っていかれることは日常茶飯事で、こうしたことには慣れているのだが、気持ちが少々凹んだ…
花というのは人を癒す力があるのではないだろうかと思うことがある。
だから境内にもっともっと花木を増やしたいと思うのだが、実際には苗木を集めるのも、育てるのもなかなか大変な作業である。
心にわだかまりがあったり、心が暗く落ち込んだ時に花や自然に心を癒されることがある。
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白井貴子さんは私達の年代にはとても懐かしい方である。白井貴子さんはある時期から精神的にとてもつらいことがあって本当に心がくじけそうになった時に一輪の花が咲いているのを見て、それで心がふっきれたと仰っていた。自分もこの花のように生きていけばいいんだ…と白井貴子さんは思われたそうである。
細かな事情は語られなかったが、すごく共感できる話だった。
本山に居たころ、境内の掃除をしていた。
季節は多分、今頃だったと思う。本山での生活というのは予想以上に厳しくて、失敗が続くと気持ちが凹んでしまうことも多かった。
その時に地面に小さな小さな花が咲いていた。
その花はその辺り一面に咲いている雑草の一株に過ぎなかったのだが、直径が僅か数ミリしかないような花を見たときになぜか猛烈に感動したのである。
そのとても小さな花から凛然とした気迫のようなものが感じられたのである。
それに圧倒されるような思いがしたのである。
自然というのは本当に偉大だなと思うことがある。そして自然の背後にもっと深い何かを感じるときもある。
ある時、仏様ということについて考えていて、自分なりにひとつの考えが浮かんだことがある。その時、車で走っていたのだが、視線を上げると青い空が広く見えた。
その途端に自分の考えていた仏様というものが木っ端微塵になるような気がしたそれほどその時に見た空が大きく、深く見えたのである。自然の背後には人間の浅い知恵を凌駕する何かを感じることがある。そしてそれに触れたいと思う。
心が挫けそうになった時に是非自然に心を向けてほしいと思う。
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