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映画『パッチギ!』と「イムジン河」ザ・フォーク・クルセダーズ

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昨日、投稿しました「メンズクラブ」にちょっと関連するお話を・・・

2005年に公開された映画『パッチギ!』
昨年5月、地上波テレビで放送されたのでご覧になった方も多いと思います。
パッチギ! 監督:井筒和幸 原案:松山 猛 主題歌「イムジン河」「あの素晴らしい愛をもう一度」ザ・フォーク・クルセダーズ 2005年製作。
ストーリー /1968年の京都。お寺の息子・康介はGS人気にあやかって“マッシュルームカット”にするが、女の子には気持ち悪がられるだけだった。
親善サッカーの申し込みに朝鮮高校に行った康介は、ブラスバンドの音色に誘われるまま音楽室をのぞき込み、フルートを吹くキョンジャに一目で心を奪われる。
しかし彼女は番長アンソンの妹だった。
酒屋の坂崎(オダキリ・ジョー/新生フォークルのメンバーとなったアルフィの坂崎がモデル?)からキョンジャの吹いていた曲が『イムジン河』だという事と、その歌の意味を教わった康介は、キョンジャと仲良くしたくてギターで練習し始める。帰国を決意したアンソンを祝う宴会に姿を表した康介は、訝し気な視線の中、キョンジャと『イムジン河』を合奏する。
康介は民族衣裳のみんなの輪の中に入れてもらい、すっかり仲良くなる事ができた。
その頃、アンソンの彼女・桃子は妊娠していることが分かるが、アンソンにはそれを告げずに別れを切り出してしまう。
アンソンの弟分チェドキの事故をきっかけに在日朝鮮人の思いの丈に触れた康祐は、泣きながらギターをたたき壊す。
実はその日はラジオの勝ち抜き歌合戦の収録日だった・・

映画で流れる「イムジン河」は新たな感動を呼ぶとともに、今一度国家民族間の問題を見つめ直すきっかけとなるに違いない。
南北国家を分ける川、日本人と在日を分け隔てる川、そして・・・。
胸ときめく切ない恋と涙あふれる熱い友情、そして思わず顔をしかめる程の激しいリアル・ファイトに満ち無軌道な若者たちが不条理な社会の荒波に巻き込まれながら、大人への一歩を踏み出す姿をとらえた青春群像劇。
いつの時代にも共通する若者の普遍的な純粋さと葛藤を描いて、彼らの言葉に出来ない心の叫びが観る者全ての熱い涙を誘う。
対立する二つのグループの男女がふとしたきっかけで知り合い、やがて恋に落ちてゆくが、そこには二人の思いを妨げる深い河が横たわっていた。
スピード感溢れるエピソードが繰り出す笑いと、純粋であるが故に深く胸に刻み込まれる挫折と悲しみ、そしてラストに訪れる爽やかな感動が、これら全ての感情を包みこんで未来への希望に変えてくれる。
『パッチギ!』は“日本版ロミオとジュリエット"、そしてダンスをケンカに置き換えた“日本版ウエストサイドストーリー"とも言える胸躍る感動作だ。
パッチギとは、ハングル語で“突き破る、乗り越える”あるいは“頭突き”の意味。
喧嘩の強い友達がよく「パッチキかましたってん」と自慢気に話していた。
当時よく見たプロレス中継では、韓国出身のプロレスラー・キム・イルこと大木金太郎が頭突きを得意技にしていて、ボボ・ブラジルという黒人選手が得意技にしていたヘッドバッドに対抗し、果てしなく頭突きをカマし合うシーンをハッキリと覚えている。
映画パッチギに登場する密入国してきた「キム」は大木金太郎のモデル?
大木金太郎・・同郷の英雄力道山に憧れて漁船で日本に密入国し、プロレス入りのチャンスを伺っていたが、1959年に入管法違反で逮捕される。
力道山が同郷のよしみで身元引受人となり釈放され、日本プロレスに入門し同年11月にプロレスデビュー。
翌年にはジャイアント馬場とアントニオ猪木が入門・デビューし、若手三羽烏」と称された。

この映画は1968年が舞台になっています(ちなみに私は中学一年でした)『イムジン河』の曲がテーマになっていて長らく放送禁止、発売禁止となっていましたが ザ・フォーク・クルセダーズの当時の限定300枚自費出版『ハレンチ』がCDで復刻されました。

原曲『イムジン河』(作詞:パク・セヨン/朴世永、作曲:コ・ジョンハン/高宗漢)は、1960年代に北朝鮮で作られた曲で、朝鮮半島38度線による南北分断の哀しみを歌ったもの。
日本では1968年、松山猛の訳詞でフォークルがレコード化するはずだったが、シングル盤13万枚をプレスし発売直前になって、当時の情勢と関係各方面の圧力から発売元の東芝EMIが発売中止を決定。
放送メディアもオンエアを自粛したものの、ライブステージでは歌い継がれてきたという幻の曲。
当時、発売禁止になったザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」がこちらで聴けます。感動します。
http://jp.youtube.com/watch?v=1-eJDL3zLCQ&feature=related

その後、SFC音楽出版を母体に誕生したソリッドレコードからこの曲を収録したフォークルのアルバム『ハレンチ+1』がCD化され再リリース。
2000年の南北首脳会談を機に“統一を願う歌”として『イムジン河』が再度、脚光を浴びたこともあり、リマスター盤CD『ハレンチ』が2002.03.21にアゲント・コンシピオからも発売されている。

写真は初回限定のレコード紙ジャケット仕様の『ハレンチ』 と『ザ・フォーク・クルセダーズ(ベスト版)』 です。一緒に写っている『メンズクラブ』1965年9月号の巻末読者のページに加藤和彦氏が『フォーク・コーラスを作ろう』とメンバー募集を告知しました。
これを見た北山修氏が妹さんのママチャリにギターを背負って加藤和彦氏の家を訪ねた事から、伝説のグループ『ザ・フォーク・クルセダーズ』 の誕生のきっかけになりました。

更にその隣に掲載されているのは、のちの男性ファションイラストレーターの第一人者となる、穂積和夫さんではないですか!あの「アイビーボーイ」のキャラクターを懐かしく思い出す方も多いはず。穂積和夫さんのイラストレーションは、かつての若者たちにとって、メンズファッションそのものだった。2度ビックリ!!
この本が世に出た 1965年当時は私はまだ9歳でした。

音楽業界に革命を起こしたと言ってもよいフォーク・クルセダーズの結成は 1965年「メンズクラブ」9月号のメンバー募集を発端としたのでした。

帰って来たヨッパライが大ヒットして一世を風靡したフォークルが、次にレコード化しようとしたのが「イムジン河」でした。ところが、朝鮮総連から「歌詞の内容が原作と違う」などと抗議を受け、政治的配慮により発売を中止され、放送することすらも禁止されてしまいました。
その理由が、主に政治的な配慮から、というのは後から知ったことで、当時の私には訳など知る由もありませんでした。
この曲を、ラジオで放送禁止になる前に数度聴いた記憶があります。
美しい旋律に彩られてはいるけれど、メッセージ性の強い歌詞が心の中に深く残り、フォークソングというものに宿る力のようなものを実感した初めての曲といってもいいかもしれません。
当然、この歌の奥に秘められた深い哀しみなど知る由もありませんでしたが、朝鮮半島に暮らす一つの民族が、イムジン河を隔てて二つに分断されている現実を、一つの歌で知らされるという衝撃的な経験をしたのでした。
以来、私の中で長らく幻の『マイ・フェバリット・ソング』となっていました。
2002年、アルフィの坂崎幸之助氏(はしだのりひこは不参加)を加えあのフォークルが再結成を果たし「イムジン河」もついに封印を解かれ、日の目をみることが出来ました。
(加藤氏はフォークルは「再結成」ではなく、「新結成」であると語っている)

このユニットはその後、加藤和彦氏と坂崎幸之助氏の二人で和幸(かずこう)として活動しています。

映画の中で挿入歌にもなっています「悲しくてやりきれない」実はこの歌にはちょっとした逸話が・・・「イムジン河」が急遽発売禁止になった為、苦し紛れに加藤和彦氏がなんと「イジン河」の曲の最後から頭の部分へ反対側に譜面をおこしたものが「悲しくてやりきれない」のメロディーなのです。
私にフォークの世界を知らしめてくれたのは、フォークルの「帰ってきた酔っ払い」であった。
当時はフォークソングなどという言葉はあまり聞かず、アングラ・ソングとか言われていたものである。
その後、はしだのりひこ&シューベルツの「風」、70年にはジローズの「戦争を知らない子供たち」、そして1971年には加藤和彦&北山修「あの素晴らしい愛をもう一度」が全国を席巻する。

原作脚本:松山猛(まつやまたけし)
1946年京都市生まれ。1967年に作詞した「帰ってきたヨッパライ」がミリオンセラーとなる。その後、編集者、執筆者として「平凡パンチ」「ポパイ」「ブルータス」などで活躍。

「イムジン河は、地理の上の河だけではなく、実は人間と人間のあいだにも流れる、心のへだたりでもあるかも知れない」と2002年に発売された「イムジン河」のライナーノーツに記しています。
1968年、当時「ザ・フォーク・クルセダーズ」が歌い、発売寸前で急遽、発売中止となった伝説の歌「イムジン河」朝鮮半島38度線による南北分断の哀しみを歌ったもの。
根強いファンの声に支えられ遂に、復刻版CDが34年ぶりに発売された。
この曲がたどってきた道は、日本と朝鮮半島の複雑な関係を反映したものであり、作詞した松山猛氏にとって、長年の「消化不良」が癒えないまま歩んできた道でもあった。
 朝鮮半島の南北軍事境界線近くを流れる川に祖国統一を願い、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で作られた「イムジン河」。
その美しい調べを日本で偶然耳にしたのは、「けんかよりサッカーで勝負しようよ」と朝鮮中級学校に乗り込んだ、中学生の松山(映画パッチギの康介のモデル)さんだった。
北朝鮮の愛国的な歌曲を、平和を願う日本のフォークソングに生まれ変わらせた張本人である。「イムジン河」は民族が分断され、南の故郷に帰れない北の人たちの思いを自由に河を渡る水鳥に託している。
映画「パッチギ!」を観て、「イムジン河」を聞き、考え、そこからまた新しい何かが始まるかもしれません。

過去のブログ記事も加筆、訂正、写真追加している場合がありますので宜しければ時々、覗いてみて下さい。

団塊の世代に贈るアイビールックの秘密「VAN」

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2008年6月2日の報道ステーションの特集は団塊の世代に贈るアイビールックの秘密「VAN」でした。

あなたの周りにこだわりを持った50~60歳代の男性はいませんか?
その男性はきっと青春時代に「VAN」の洗礼を受けて
今も体の中にはしっかりと「アイビー」の血が流れているはず!
アイビーを介してT.P.Oを学び、若者の伝道師様な存在だったのが石津謙介氏だった。

VANの活動は服飾生活だけに眼定されることなく、青山に「VAN99ホール」といったイベントスベースを開設したり、当時まだあまり知られていなかったアメリカンフットボールの普及につとめ、社内にわが国最初の社会人チーム「ヴァンガーズ」をつくるなど当時の若者文化のリーダー的役割を果たした功績は非常に大きい。
「TPO」という言葉は石津の造語であるが「ファッションとは衣食住、ライフスタイル全般のことである」というのが持論である。
「私は流行は作らない。風俗をつくる」

かつて「VAN」ブランドの総帥として「アイビーの神様」と呼ばれた石津謙介氏。
その当時の、60~70年代のアイビー風俗を振り返りながら、
今も尚、脈々と生き続けるアイビ-・トラッドの世界を紹介します。

1951年、大阪に産声を上げたVANヂャケット。
VANの送り出したアイビールックは1960年代当時の若者達に爆発的なブームを起こし、その後の若者立ちの思想文化にまで大きな影響を与えました。
VANがこの世の送り出した、洋服、ノベルティ、コマーシャルの数々。
「VAN」とは一体何だったのか。

「流行に左右されない男の生きざまが伺える組み合わせこそおしゃれの真髄」
「形を着せるのではなく男の誇りを着る」
ボタンダウンを愛した私たちの世代には、男の粋の伝道師であり先生のような存在でした。
かくいう私も高校生の頃より「アイビールック」(厳密に言うとトラッドの世代)の洗礼を受け、単なるファッションにとどまらず、生き方そのものを大いに学んだものです。

『アイビー』と『トラッド』・・・
●アイビーとは、1960年代に東京のみゆき通りに集まった流行に敏感な若者「みゆき族」の間で発生した服飾文化で、後にトラディッショナルなファッション分野として定着したスタイルのこと。

アメリカ東海岸の名門私立大学グループ「アイビー・リーグ」である6大学の学生の間で広まっていたファッションを、当時の日本の若者は洗練されたイメージとして捉え、比較的上品に着こなすトラディッショナルな風俗として広まった。特に、当時一世を風靡した株式会社ヴァンヂャケットの石津謙介がこのファッションの提唱者として、この流行文化をファッションジャンルの一部として定着させた。ボタンダウンシャツを基調とする。ジャケットは3つボタン上ふたつ掛け。

「アイビー」にはニューイングランドのエリート学生が着こなす優等生的なスタイルから、アメリカ的バンカラ風にそれを着崩したスタイルまで幅広い。中でも象徴的なアイテムとして、三つボタンブレザー、ボタンダウン・シャツ、チノ・パンツ、コイン・ローファーなどがある。

●トラッドとはトラディショナル・スタイル(traditional style)伝統的メンズ・スタイルのことで、特に米国東部の伝統的テキスタイルをいうことが多く、アメリカン・トラディショナルとも呼ばれる。略してトラッドともいう。トラデッショナル(トラッド)英語の「伝統的な」という意味であるが、アイビーの数年後にブームとなり基本的にアイビーと同義語であるが、米国のルーツである英国の伝統的トラディショナルスタイルをベースとする。ジャケットは3つボタン段返り中ひとつ掛け。
ファッションにおいて、「伝統を重んじるスタイル」1970年代前半(1972年がピーク)に流行る。

機能的でスポーティーな感覚のオーソドックスなスタイルで質感にこだわる。広くブリティッシュ・トラディショナルや、さらには同様な感覚をもつ女性のファッションを含めていうこともある。服装だけでなく、背景にある特有のライフスタイルを包含して使う。

しかし、そんな多大な影響力を誇った「VAN」も昭和53年4月に倒産してしまいます。
倒産してからわずか2ヵ月後、現:マガジンハウス(当時平凡出版)発刊の「POPEYE」誌6月10日号で「ありがとうVAN」「VANが先生だった」と題して特集号が出ました。
多くの週刊誌で石津氏の経営者失失格ぶりが書き立てられましたが
「POPEYE」は違っていました。
「僕たちはVANの服でアメリカの学生生活を知りVANのキャンペーンでスポーツライフに目覚めたんだ。
今僕たちは言わなければならない★ありがとうVAN!と」


1枚目左:ポパイ創刊号 右:創刊から一年後の1978年6月10日号
アイビーを知らない若い「ポパイ」世代読者に大反響。
売り切れ続出で、皮肉にもこれがきっかけで当初赤字続きだった「ポパイ」は発行部数がグングン伸びて50万部突破!
のちのプレッピーブームへの足がかりとなった記録に残る号です。

倒産しても若者からありがとうと感謝されるVANとは
どんな会社だったのか?!

株式会社ヴァンヂャケット (VAN Jacket inc.) はかつて1960年代に一世を風靡した、日本のアパレル企業である。

1960年代には東京・みゆき通りに集まる流行に敏感な若者、総称して「みゆき族」の間に流行していたニュー・イングランド風のファッションを、アメリカ東海岸名門大学グループ「アイビーリーグ」にちなんで「アイビー」と読んだが、このアイビー・ブームを打ち出したのがこの会社である。

みゆき族の間ではヴァンヂャケット社のブランド「VAN」の紙袋を持つことさえおしゃれであるとされ、「VAN」はその後日本のファッションシーンの最先端を走り続けた。アイビーファッションの信望者の中では神様的扱いのブランドであった。

1970年代になっても人気は衰えず、「JUN」など似たようなアルファベット三文字のブランドも増えた。

青山に本社ビルを構え、企業内クラブとしてアメリカンフットボールのチーム「VANGURDS」を持つなど、当時時代の最先端を行く企業として若者の間の人気は高かった。

それまでの男性ファッションと言えばオンとオフがなくどこへ行くのにも学生服というような時代でしたが「TPO(Time、Place、Occasion)」という概念を提唱しファッションを超越して衣食住、ライフスタイル全般にまで多大な影響を与えた「アイビー」は現在60歳前後の団塊の世代に多大な影響を与える。

そして今でも熱烈な「信者」を持つ、VANの創業者石津氏とはどんな人物だったのか?!

●石津 謙介(いしず けんすけ)
旧制岡山第一中学(現・県立岡山朝日高校)を経て明治大学商科専門部を卒業後、実家の紙問屋の経営を引き継いだが、ファッションへの造詣が深く、当時の中華民国・天津で洋品店に勤務。戦後はファッションメーカー・レナウンに勤務した後1951年に独立し、「VAN」ブランドとして知られる「株式会社ヴァンヂャケット」を設立。大阪・現在のアメリカ村で起業される。のちに東京・青山に本社移転。特にブレザーとボタンダウンシャツをベースとした学生のファッションスタイルを「アイビールック」として紹介し、若者のファッション文化に改革をもたらした。さらに銀座にある「みゆき通り」をそれを着た若者で埋め尽くす「みゆき族」まで登場した。VANの送り出したアイピールックは、l960年代当時の若者達の間に爆発的なブームを呼び、単なる流行現象にとどまらずその後の若者達のライフスタイルや思想にまで大きな影響を与えた。
また1964年東京オリンピックの日本代表選手団の赤い公式ブレザーや、1966年-1968年にはサンケイ・アトムズの試合ユニフォームをデザインした。

1978年に株式会社ヴァンヂャケットが約500億円の負債を抱えて経営破綻(その後再建)した後はフリーのファッションデザイナーとして活動する傍ら、食・住等のライフスタイルを積極的に提案した。「時・場所・場合を考慮して」という意味でよく用いられる「TPO(Time、Place、Occasion)」、「トレーナー」、「フライデーズ・カジュアル」、「スウィングトップ」、「ステンカラーコート」などのファッション用語を定着させたのも彼である。

2005年5月24日、肺炎のため死去。享年93。ファッションに最期までこだわり続け、寝たきりになってもパジャマを着ることを拒絶し、三宅一生デザインのシャツを着たまま息を引き取った。

最晩年は色紙を頼まれると「卒艶」と書かれたという。
出版した「男たちへの遺言-永遠のダンディズム論」には
「90歳になっても艶っぽい、人間いくつになってもロマンティックをわすれなさんな」という意味を込めていたと記されている。
同書の結びには「お洒落な人より洒落た人になれ」
そんな石津氏は生前、献体登録をし、遺言状には「葬儀不要、戒名無用」としたためていた。
献眼登録をした母親の角膜が生かされたこと、白血病で逝った息子の輸血の多く人の力を借りたという感謝の念が背景にあったという。
同時に一時代を築いたVANジャケットの倒産という経験から芽生えた
アンチ拝金主義への思いも見逃せない。
「金儲けの為なら何をやっても許される風潮がはびこっている」嘆かわしいと・・・
常々「ファッションとはライフスタイルをも含めたトータルなもの」と語っていた氏。
人にもそれぞれの死生観がある。氏は死後までもこうした信念を、誇りを持って貫かれました。
永遠のダンディズムとして・・・。

私の人生のバイブルでもあった「MEN‘S CLUB」通巻34号
1963年12月号、当時の売価200円
名物企画の「街のアイビーリーガース」の第二回。
この号より本のタイトルがMEN‘S CLUB」になり、紙面サイズが国際サイズとなります。
この前の号は「男の服飾事典」でサブタイトルが「MEN‘S CLUB」となっていました。
当時のバイブルとも言える『MEN‘S CLUB』メンズ・クラブのコレクションをお楽しみ下さい。








~1979年12月号を最後に卒業しました。


妹版誌「MCシスター」もありました。

私は『アイビー』後の『トラッド』の影響を受けた世代なのですが「アイビー」をより深く研究し最も影響を受けました。

私のワードローブの奥深くに「VANの真っ赤なブレザー」があります。
30年以上も前に、還暦になったら「赤いちゃんちゃんこ」のかわりに着てやろうと買い求めていた物ですが・・・いかんせん体型が様変わりしてしまってちょっと不可能になりましたが(笑)
その精神だけはしっかり受け継いで行きたいものです。

『ありがとうVAN』

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◆KITAC☆月光仮面 オリジナルフィギュアが入荷しました

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◆桑田次郎●宣弘社★川内康範(かわうち・こうはん)サタンの爪


変身ヒーローものの元祖とも言える昭和33年頃にTV放送された実写版タイプのかっこいい月光仮面のフィギュアです。

材質は台座部分も含め全てソフトビニールの様な素材ですが中が中空になっておらず、ずっしりと重量感・安定感があります。本体のみ重量410g。

台座に差し込み式の旗は取り外す事も可能です。

特に可動部分はなくディスプレイモデルとなっております。

まんだらけ梅田店で4800円で販売していました。

パチスロの販促品で非売品。

本体高さ20、6cm。箱の大きさは縦25.5cm×横11.5cm×奥行9cm。

未開封新品。こちらの品は2800円(税込み)で販売可能です。

購入はhttp://www5.nkansai.ne.jp/res/coastline/ (コーストライン)まで。

お店までお越し頂けない方の為に全国発送も可能です(送料580円が別途必要となります)

店主の一押しの品です。

月光仮面のお面4種セット10000円(税込み)

店内には他にも昭和30~40年代のお面を中心に280種類程、販売、展示しています。

紹介しています品は、大変古い物が多く複数、在庫がある場合もありますが1点物も多く、流動的です。
お店に直接お越し頂いても全ての品が常時展示されているとは限りませんので事前の在庫の有無をお確かめ頂きますと助かります。
売り切れの場合はお許し下さい。

団塊の世代には懐かしく是非、お手元に。

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月光仮面のDVDは下記の関連サイトから購入出来ます。
↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓ 
http://blogs.yahoo.co.jp/poppy1386/55754769.html

引退表明までサプライズ!!【小泉元首相政界引退】小泉劇場、突然の幕

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小泉純一郎元首相(66)が、今期限りでの政界引退を突然表明!!

「自民党をぶっ壊す」「感動した」などの名言で多くの国民を沸かせ、北朝鮮による拉致被害者を帰国させた功績などを評価する声がある一方、聖域なき構造改革や規制緩和を進め、格差社会の生みの親として批判する向きも。
良くもあしくも日本の政治を変えた小泉劇場が、幕を閉じようとしている。
引退表明までサプライズ(驚き)で締めくくるとは、いかにも小泉純一郎元首相らしい引き際だ。
政界の世代交代を促進し、日本の政治潮流を変えるきっかけになりうる決断としては評価したい。

小泉氏は首相在任時の平成15年10月、インタビューで「私自身は、(引退は)65歳をめどにしている。
その後はゆっくりとさせてほしい」と語っている。
政治的思惑は当然あるだろうが、66歳になった小泉氏にとっては、かねての計画を実行に移しただけともいえる。

自民党出身の首相経験者が古希(70歳)を前に自らの意志で引退生活に入るのは、昭和30年の結党以来初めてのケースになり多くの首相OBは、退任後も身体の許す限り議員活動を続け日本には年長者の経験や知恵を大事にしようという空気も強い。

しかし、そうした傾向が政界の新陳代謝を遅らせ、長老議員による談合によって重要な決定がなされがちな日本的政治風土の素地となってしまっている。
こうした中、小泉氏が、政治的影響力を持つ「首相OB」議員の座を自ら放棄した意味は決して小さくない。
東京都の石原慎太郎知事は、「さっぱりしていて、彼らしくていいじゃない。自民党は人材がいるんだからどんどん新陳代謝をすればいい」と引き際の良さをほめた。

■小泉氏語録

「小泉内閣は改革断行内閣だ。改革には必ず抵抗勢力が出てくる。その戦いは今日から始まった」(平成13年4月26日、小泉内閣発足を受け)

「今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ必要ではないか」(5月7日、所信表明演説で)

「痛みに耐えてよく頑張った。感動した」(5月27日、大相撲夏場所で優勝した横綱貴乃花関に)

「改革なくして成長なし」(6月21日、経済財政諮問会議の方針に)

「自民党が小泉の改革をつぶそうというのなら、私が自民党をぶっつぶす」(7月8日、参院選遊説)

「涙は女性の最大の武器というからね。泣かれると男は太刀打ちできないでしょ」(14年1月25日、田中真紀子外相の涙に)

「どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域か、今わたしに聞かれたって、分かるわけない」(7月23日、党首討論でイラクへの自衛隊派遣について)

「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろだ」(16年6月2日、衆院の委員会で勤務実態のない厚生年金加入問題を追及され)

「恐れず、ひるまず、とらわれずの姿勢を貫いて改革を断行することは、まさに私の『本懐』とするところであります」(17年1月21日、施政方針演説で)

「通常国会での郵政民営化法案の廃案は内閣不信任で退陣要求、倒閣運動と受け取るのが自然だ」(2月9日、郵政民営化法案について)

「政界の奇跡だね。小泉を支持してくれた国民の皆さんのおかげだ」(10月14日、郵政民営化法の成立を受け)

「内閣支持率の上下をいちいち気にすることはない。鈍感力が大事だ」(19年2月20日、安倍内閣の支持率続落に)

「応援しない人を敵と思ってはならない。いずれ味方になるかもしれない」(20年9月16日、自民党総裁選に出馬した小池百合子氏らとの会食で)

数々の名言を残した小泉元首相、平成13年から18年までの5年半(1980日)にわたる首相在任期間の長さには人気の程が伺えます。
今後はバラエティー番組などで活躍する姿を見てみたいものです。

今回はそんな首相就任時に発売されていた小泉元首相のフィギュアのご紹介です。

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芸能人の「スター人形」は大珍品です★御三家と言えば・・・元祖アイドル

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昨日、ご紹介したピンクしディ人形も今となっては充分に珍しいのですが、今回ご紹介する「スター人形」は更に珍しく珍品中の珍品です。

御三家と言えば・・・橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦です。
郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎は新御三家です。

一枚目の写真左より・・・
●舟木 一夫・・・学生服と八重歯がトレードマークで、デビュー当時は、学園ソングとよばれる、高校生活をテーマにした歌が多かった。愛知県一宮市出身。
1963年、「高校三年生」でコロムビアからデビューし、いきなり120万枚の大ヒットを飛ばし、スター歌手に。
同名で本人が主演した映画も大ヒットした。それに続き「学園広場」「修学旅行」などもヒットする。
1970年前後には、こうした青春ソング以外にも時代モノ、民謡調などの歌にも独特の持ち味で数々のヒットを飛ばした。
テレビ時代劇「銭形平次」のテーマソングも、番組のロングランもあって舟木の歌としてよく知られるところとなった。
また舞台などにも出演し、多彩な活動をしている。

●橋 幸夫・・・遠藤実、吉田正に師事し、1960年に「潮来笠」でビクターレコードからデビュー、同曲で日本レコード大賞新人賞受賞。
後にデビューした舟木一夫、西郷輝彦とともに「御三家」として人気を集める。
ビクターからデビューする以前にコロムビアのオーディションに落ちているが、コロムビアからデビューしていたら、舟木一夫という芸名になる予定であった。
1962年、吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」が30万枚以上を売り上げる大ヒットとなり、第4回日本レコード大賞を受賞した。
1966年「霧氷」で再び第8回日本レコード大賞を受賞。
人気と実力を兼ね備えた若手ナンバーワン歌手と当時、目され映画にも多数出演。
1980年前後に巻き起こった漫才ブームの時期、ザ・ぼんちのぼんちおさむが橋幸夫のものまねを頻繁に披露。
歌手としてはやや低迷していた橋にもスポットが当たった。
ぼんちおさむが橋の真似をする時のポーズ「あれ~」を、1981年に橋本人がサンヨー食品のテレビCMで演じ、逆パロディとして話題になった。

●西郷 輝彦・・・鹿児島商業高校中退後、上京し、1964年2月、クラウンレコードより「君だけを」でデビュー。
日本レコード大賞新人賞を獲得。
同年「十七才のこの胸に」で映画デビュー。1960年代を代表する青春スターであった。
1970年代に入ると人気が下降したが、1973年、TVドラマ「どてらい男(ヤツ)」の主演で人気復活。
1975年、TV時代劇「江戸を斬る」にも主演し人気シリーズとなり、俳優としての地位を確立。
1972年に辺見マリと結婚し、二児をもうけたが1981年に離婚。
長男はミュージシャンの辺見鑑孝、長女はタレントの辺見えみり。
再婚した妻の間に三女がいる。
彫りの深いマスクで女性の人気を獲得し、レコード大賞新人賞、NHK紅白歌合戦初出場を果たしてスターダムへの道を一気に駆け上がっていった。
アイドルの先駆的存在となる。
                     
●太田 博之・・・1956年、新東宝の『新妻鏡』に初出演。子役として、映画、テレビドラマで活躍する。
1960年代は日活をはじめとする各社の青春映画、1970年代はテレビの時代劇を中心に活動した。
子供時代からモデルをしていて「少年画報」の表紙を飾っていた。(彼の後継がのちのフォーリーブスの江木俊夫)
NHKの手塚治虫氏の「ふしぎな少年」実写版ドラマの主人公を演じる。
のちに芸能界を引退し、1980年代には小銭寿司チェーンを経営して財を成したが破綻。
同社在職中の1986年6月8日、監禁・強要容疑で逮捕される。
背景のブロマイドは『太田博之』ではなく『永井秀和』でした。


●久保 浩・・・福岡県北九州市出身。
吉田正の門下として、1964年(昭39)17才でデビューし「霧の中の少女」のヒットでアイドルとなった後、鹿児島、福山などでホストクラブを経営。
87年には岡山へ移り、ラウンジやカラオケスタジオなどを経営する他、現在は主に九州などで歌手活動中。
久保 浩さんのホームページhttp://www.komei-fukuokacity.net/kubo/

●安達明・・・1964年の「潮風を待つ少女」がデビュー曲。       
舟木一夫の二番煎じと言われ、学生服姿で歌った女学生」などのヒットで知られる。
この人形は長らく「三田明」と思い込んでいましたが、1965年10月24日号の「週間マーガレット」の広告ページを発掘し実は「安達明」であると判明しました。
背景のブロマイドは、そのまま、「三田明」のままになっていますのでご了承下さい。
資料、文献などを研究するのも収集の楽しみで謎が解けた時は数学の数式が解けた時のような「アハ体験※」ができます。


※アハ体験とは・・・
アハ!体験(aha! experience)は、「わかったぞ」という体験を表す言葉として、英語圏では広く使われているとともに、人間の脳の不思議な能力を表すキーワードとして、最先端の脳科学で注目されています。
普段の言葉で表せば、「ひらめき」や「創造性」とでも名付けられるような脳のはたらきが、アハ!体験なのです。解き方がわからなかった数学の問題がわかるのが、アハ!体験です。
理解できなかった友人の言動が、ふとしたきっかけで「腑に落ちる」のも、アハ!体験です。茂木 健一郎氏で有名になりましたがドイツの心理学者ビューラー(Karl Bühler)がEurekaのような現象をさしてAha-Erlebnisと呼んだものの英訳である。


今までにはさまざまな歌手及び曲目が、世に出ては消え、又出ては消えの繰り返しを行っているが、歌謡曲の絶頂期とも言われる昭和40年前後、昭和38年頃から42年頃のまさに歌謡曲全盛時、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の「御三家」を筆頭に三田明を加えた「四天王」それに続く梶光夫、久保浩、美樹克彦、山田太郎、安達明、叶修二、永井秀和、水戸浩二、有田弘二、望月浩、その他沢山のいわゆる「青春歌謡」と呼ばれた時代であった。
その中でも先程述べた御三家の面々は当時、抜出した存在であり常に歌謡界を引っ張り、彼ら抜きにこの時代は語ることが出来ない。


この芸能人スター人形は、アイドル系人形の走りだと考えられます。

バービー人形の日本発売が1962年(昭37)リカちゃん人形の発売が1967年(昭42)である事から考えて、きせかえ人形の存在が日本に定着し、製造のノウハウが確立したのが1960年代半ばだと考えられます。
従ってし、この芸能人スター人形は1960年代後半に製造されたものと
推測していいでしょう。
パッケージイラストには「美空ひばり」や「力道山」の絵があるらしく、女性タイプもあった。
着せ替えの服にも背広・学生服・着物・ジャンパー・スポーツシャツ・袴など、衣装も選べるようになっており、しっかり肌着・靴下までもあってたかが人形とあなどれない出来映えに日本人の手先の器用さが見て取れます。
この人形に関しての資料は少なく、愛知県の人が当時サイドビジネスで製造・販売されていた物らしいです。
スターの版権(肖像権)承認もしっかり取っていて、とても出来の良いお気に入りの人形です。

この人形はその後のアイドル系人形の走りだと考えられます。
これ以降、リンリンランラン、ピンクレディー、モーニング娘などへと受け継がれて行くのです。

写真以外のスターの人形をお持ちの方、詳細な情報をお持ちの方がおられましたら是非ご連絡下さい。
尚、ご本人さんから製作秘話などをお聞かせ頂ければ最高です。

過去のブログ記事も加筆、訂正、写真追加している場合がありますので宜しければ時々、覗いてみて下さい。

戦後芸能界の御三家:橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦。
この三人は、2000年に「G3K(ごさんけ)」として活動しました。
「御三家/ 小さな手紙」は下記の関連サイトから購入できます。
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http://blogs.yahoo.co.jp/poppy1386/56752363.html
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