母なる証明【 映画主義宣言(反民主主義的考察)】【2】

テーマ:◉ 映画主義宣言(反民主主義的考察)
【 映画主義宣言(反民主主義的考察) 】は、気鋭の映画プロデューサー「シネマの真似師」による映画評論を中心に、不定期で連載をしています。


※今回のレビューは作品の内容に関する記述が含まれています。
 ご了承の上、お読みください。



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・・・母なる証明・・・・

映画作家はファーストシーンに特別な思いを込める。

けれんみで見る側を驚かせる導入部もあれば、映画の主題を要約した象徴的な場面で始める場合もある。小説の書き初めの一節と同じように、その作品世界に見る側をどうやって引きづり込むのか、他のシーン以上に力を入れる。そして、この映画「母なる証明」の場合、その特異さゆえに見る側を居心地の悪い「宙吊り」状態にするシーンから始まる。

はるか遠くまで続く、枯れ草の草原、主人公とおぼしき女性が弱い足取りでよろめきながら歩いてくる。カメラは、その画面の構図の中心に彼女をとらえるのでなく、時折その中心から彼女を外すかのように揺れている。彼女(=母)は立ち止まり、泣いているのか、笑っているのか判別しづらい不安げな表情で、カメラの方、つまり見る側の私たちを見据える。音楽が流れ始めそれに合わせるように母は少しずつ踊り始め、決して上手とは言えない踊りを、ややもすれば恥ずかしそうに踊り続ける。



カメラはそれを凝視し続け、未だ物語を知らない見る側の私たちは、じっとそれを見るしかない。

こんなオープニングがかつてあっただろうかと身震いする。これから始まる物語、子を想う母の波乱の物語ただならぬものであることを予感させる怖いファーストシーンだ。エンディングを冒頭に持ってくる常套的な手法とは異なる、この最初の場面が意味するものはラスト近くで明らかになり、逆光で揺れるラストカットの象徴的な画面によってメビウスの輪のように、円環状に結びつき、母が生涯背負い続けることになる苦悩が2つの“踊ること“で見事に象徴される。

さらに、母の生業である漢方薬の調合のため薬草を裁断する手つきが映画の始まりと終わりで異なる意味が付与され、鍼灸の針の入った金属製のケースが物語りを推進する重要な役割として人から人の手に渡り、その針をうつ行為が物語りの節目節目で母と他者との関わりの契機を与え、ラストでは自身が生き延びるための処方となる。円環状の閉じた世界の中で手つきや小物が繰り返し意味を変えながら登場し、見る側を物語世界から離させようとはしない。



精神薄弱者や極貧を生きる人々が社会と関わるときの厳しい現実が、物語りに波状に介入し、見る側を圧倒し続ける。疎外される側の彼らは社会から周辺に追いやられその縁を徘徊し続けるしかないことを、これでもかと見せつける。

閉じた世界を懸命に生きる母と子が、かつて絶望の果てに心中を計ったことを、20年経って突然思い出した息子はいずれ今回の一連の事件のことを思い出すにちがいない。子供を道連れに死ねなかった母は、将来その時が来るかもしれない恐怖におびえながら生きていくしかない。

“針をうつ”ことでその忌まわしい過去と”忌まわしい未来“を取り除くことが出来るなら、“踊ること”でこの閉じた世界から抜け出すことが出来るなら...そんな思いの母のどうしようもない行き場のない表情が”ファーストシーン“のとまどいの彼女の姿だったことが判る。それが母としての強さなのか、そうでないのか、彼女には判りはしないし、はなから考えようもない。母には「そうするしかなかった」のだから。

邦題は「母なる証明」原題は「MOTHER」、ある母の極端ではあるがその生き方を通して母の本質に迫ろうとしている。その答えは先に述べた言葉に集約できるだろう。

「母は、そうするしかなかったのだ」。



・・・シネマの真似師・・・・・・・・・・・・・・

アバター【 映画主義宣言(反民主主義的考察)】【1】

テーマ:◉ 映画主義宣言(反民主主義的考察)
※突然ですが映画市外地活性化計画は、今回より【 映画主義宣言(反民主主義的考察) 】に名前を変更します。

引き続き、気鋭の映画プロデューサー「シネマの真似師」による映画評論を中心に、不定期で連載をしていきますので、ご愛読よろしくお願い致します。



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・・・アバターを見た・・・・

森の惑星パンドラ - 巨大な木々がそびえ、緑が生い茂り、多種多様の動植物が共生する星。先住民ナヴィもその群れをつくる構成員のひとつだ。登場する生き物たちを見ながら、その過剰ともいえる造型にこの映画「タイタニック」の監督の過去の作品(「エイリアン2」「アビス」など)を思い起こしつつ、「崖の上のポニョ」の作家の多くの作品の記憶がよみがえった。

文明崩壊後の大自然を走りまわる少年・コナンや空を自由に飛行するナウシカは、森の中を自在に跳びまわり巨大怪鳥を自在に操るナヴィに姿を変えた。「天空の城」を連想させる空飛ぶ山々、破壊の象徴である戦闘機の圧倒的なありさまは、宮崎作品で何度となく登場する巨大戦闘機の「異様」だ。無数の王蟲や、巨大イノシシの暴走の怒りは、突然現れる森の恐竜たちに受けつがれている。



数え上げればきりがないが、何といってもこの「アバター」に登場する細部と同様に、壮大な物語を構成する支えとなっている思想は、宮崎駿氏が描き続けてきたものと同じ主題によって成り立っている。

すなわち、文明の行き着く果ての姿、大自然の摂理に逆らう自称“文明人”、テクノロジー至上主義経済を下支えする資源開発と目的達成のための手段としての戦争、先住民が持つ自然との調和を軸とする世界観を「下等」「未開」という言葉で蔑視し、自分たちの文明こそ優位とする奢りと不寛容、近代地球上で行われてきた戦争の全てがこのあまりにも「単純な論理に」よって正当化されてきた人類の歴史。

その動かし難い巨大な構造と人間の愚かさへの諦念とそれを乗り越えんとする「希望」の存在。いつも人は失って初めて事の重大さを知る。宮崎氏が自作を通じて訴え続けてきたテーマが「アバター」の根底には脈々と流れている。



さらに、アニメと実写(CG)の境を越えて、画面上で表象されるもの、その方法が似通っている。

「聖なる存在とグロテスク」―先にも述べた過剰な造型の動物たちは決して他を排除するために生きるのではなく、森の共生関係を壊さんとするものに対してのみ攻撃的にその異形を誇示する。

宮崎作品の中でグロテスクな存在はいつも、その内に切実さを抱え、堕落した社会や精神の苦難を一身に引き受ける聖なる存在であった。「アバター」全体に登場する生物のグロテスクな姿は、しかし、その中に共存のための智恵を持ち、自然に対する畏怖と信仰の下に生き抜く意志に貫かれている。伸びる枝状の細い触手による生命の神秘的な伝播、それによって主人公は死と再生の間を軽々と乗り越えて甦生する。聖なるものは、主人公の意思を死滅させてはいけない時、何かの死と引き換えに、その意思を肉体と一緒に甦らせるのだ。宮崎作品に通ずるイメージでもある。

大仕掛けの特撮映像に目を奪われがちだが、冷静に作品を見ればとてもシンプルな構造の物語であり、作者が描く主題は、まさに「地球環境」が声高に叫ばれている今、しっかりと受けとめなければいけないものだ。

上映は「2D」によるものだが、だからといってこの映画の精神が色あせることはない。「3D」であることと、この映画を「見る」こととは全く違う作業だと思う。


・・・シネマの真似師・・・・・・・・・・・・・・

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