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21世紀版エヴァは何を語ろうとするのか 【4】

テーマ:◉ 映 画 情 報【連載】
そして、21世紀―。

世界・社会情勢は未だ混迷を極めてはいるものの、ここ日本ではあのときの暗さは薄れたような気がする。そんな今、庵野監督率いるスタジオカラーは、

ヱヴァンゲリヲン新劇場版で何を語ろうとするのか?


(C)カラー

再編集したものを劇場で公開するということは、テレビアニメの世界では確かに珍しくない。
(ガンダム3部作など)
ただ、「リビルド(再構築)」と銘打っているだけに、ただの焼き直しであるはずがない。

明確な目標があるのだろう。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」からの推測でしかないが、それは「20世紀版エヴァ」の7話からを作り直し、物語としてきちんと完結させる。ということではないか。決着/ラストに明確な答えを提示するのか。

それならば、今回の作品は悲惨なラストは待ち受けていないはずだ。

“時代“は、作品に大きく影響する。

「20世紀版エヴァ」は、“どう終わっていくか”という物語だった。
「21世紀版エヴァ」は、“どう始まっていくか”という物語になるのではないか。


とにかく、「破」の展開によって物語はまったく先読みできなくなった。
庵野監督は、どんな未来を提示するのか。

21世紀はまだ始まったばかりだ。



【終】

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
10月10日(土)より上映

21世紀版エヴァは何を語ろうとするのか 【3】

テーマ:◉ 映 画 情 報【連載】
特にアニメにおいて(どこの国でも)、少年少女が主人公のものが多い。

それは、アニメが子供たちのために作られているということなのだが、
(日本では、最近は対象が大人のものも主流となっているが)
視聴者が、登場人物と共に成長していくというのは、変わらない流れだろう。
(少年少女が健やかに成長していく姿は、大人も一緒に楽しむことができる)

「20世紀版エヴァ」も、はじまりはそうである。
夕方6時半という、子供たちのゴールデンタイムといえる時間に放映され、

はじまり~6話まで(「序」)は、内省的な登場人物が少しずつ、成長していく様が描かれ、
その流れは非常に情緒的、感動的ですらあった。

ただ、その流れは7話目から少しずつ狂い始める...。



主人公は自閉し、痛々しいまでに明るく振舞う少女が新たに加わり、クラスメートは足を一本失う。ヒロインは爆弾を抱えて自爆する(もっとも、ある理由のため、また何事もなかったように出てくるが)

とても暗い、健やかにはなれない、そんな「元には戻れない雰囲気」が漂っていく。

その痛々しさは、物語だけが起因しているわけではない。

監督の精神が破綻していく様が、この7話以降でありありとみせつけられていくのだ。

登場人物が壊れていく様は、ほぼ自傷行為といっていい。
また、音声のみの性交シーンがある大人向けの回や、異常なテンションの明るい回など、少々“分裂気味”な1話1話の展開の落差は、視聴者もとまどった(もはや午後6時半のアニメではない)。

そして、25話/最終話はそれまでの展開を無視し、精神世界で自己問答を繰り返すという画期的なものだったが、結局“24話までの物語”は完結せず放送終了となった。

そして、1997年に最終2話を作り直して公開された『Air/まごころを、君に』。
これは、庵野監督の精神世界が壊れていく様子を描いた作品といってもよく、未来への提示はなく、ここでも現実の拒絶/崩壊のまま、一応の完結を迎えた。



このような、破綻寸前の作品をたくさんの人が受け入れたという事実。
それだけ、庵野監督のライブ的ともいえる先の読めない演出手法や、(良くも悪くも)正直すぎるほどの創作の姿勢は、その魅力を語るにあまりあるものであった。


それにしても、
世紀末の日本という国は、非常に重苦しく暗かったと思う。




【4】につづく

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
10月10日(土)より公開

21世紀版エヴァは何を語ろうとするのか 【2】

テーマ:◉ 映 画 情 報【連載】
「20世紀版エヴァ」は、簡単に言えば世界の崩壊と再生の物語である。



終末論は、
社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、絶対者の審判や未来での救済に求めようとする。これはどこの文化でも同じことだ。

20世紀末は、まさにそういった時代であった(精神面において特に)。

エヴァは、キリスト教的なモチーフをちりばめているが、それはあくまでも終末論における“アイコン”でしかない。作り手、観客どちらも“その雰囲気”が伝わればいいのだ。これは、日本文化(=アニメ)ならではのものだろう。
日本の若い世代において、固定の宗教観のない世代がこの終末論に賛同したのには理由がある。

エヴァにおいての終末論にいたる理由が、

死んであげるから、皆で死のう(崩壊)
一緒になるのだから怖くないよ(再生)


であるからだ。これが、世代としてはまった。
この時代のモラトリアムには、インターネットや携帯電話などの道具があった。
一人で自分を守れるのである。結果、人との肉体的な接触ができにくくなる。
想像でパラノイアに陥り、傷つく。出口はなく、そのループである。

この終末論とは、孤独の裏返しである。
そこには人に触れたいという願望もはらんでいる。




【3】につづく


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
10月10日(土)より上映

21世紀版エヴァは何を語ろうとするのか 【1】

テーマ:◉ 映 画 情 報【連載】
遡ること1995年―、

今思い返すと、とても暗い時代だった。

その年は、阪神・淡路大震災(1月)が、地下鉄サリン事件(3月)が起こった。
世の中には怒り・不安・悲しみに満ちていた。

そんな中、10月にTVシリーズ「新世紀エヴァンゲリオン」の放送がはじまった。
それは、今までのアニメーションを覆すような作品だった。事件だったともいえる。

この3つは、それぞれ同時多発的に起きたものであり世紀末日本を代表する事象である。



「新世紀エヴァンゲリオン」以降のアニメのほとんどに「エヴァの影」がつきまとう。
それほど、このアニメは革新的なものだった。

●非常に繊細な主人公を含む全ての登場人物が、何かに悩み、自問自答する。
●大人の悪巧みに踊らされる少年少女。
●人物の後ろ姿やロングショットの静止画を多用したセリフシーン。
●青空、夕焼け、電柱・電線などの風景のインサート。
●TVシリーズとは思えない細部へのこだわりとそのクオリティ。
●クラッシック音楽を多用した映像演出


特にTVアニメでは、上記のどれかひとつでも入っている作品は「エヴァ以降」の作品になってしまう。それほど、その影響力は強かった。それまで、心の闇を抱える“情けない”主人公なんていなかったのだ。

しかし、この時代に青春時代をすごし、エヴァを見て過ごした当時の若者は(エヴァ世代)、情けないなどとは思わなかったはずだ。主人公に深く共感し、どこまでも深い心の闇に落ちていく感覚を味わったのだ。

エヴァ世代=ジェネレーションY

ということになると思うので、簡単に説明しよう。
(ジェネレーションYとは本当は、アメリカ合衆国での意味ではあるが)

ジェネレーションY(Generation Y)
1975年から1989年までに生まれた世代である。Y世代(わいせだい)ともいう。
一桁台から14歳までの時期に冷戦の終結と社会主義の没落に遭遇し、
10歳~20歳になる時期にインターネットの爆発的普及を経験した。


ジェネレーションYの青春時代は、インターネット/携帯電話により、人との繋がりを求めた世代である。人を怖がるが、愛情に飢えている人間、真面目な人ほどそんな人間が多かった。

この人々を、エヴァから引用するならば「ヤマアラシのジレンマ」であろう。

傷つくのを避けるために,他人と一定以上の距離をおくために必要に駆られて身にまとった "ハリ" が,いざ他人と近づきたい状況になると邪魔で仕方なくなるという「自己の自立」と「相手との一体感」という2つの欲求によるジレンマである。

それはそのまま、この「20世紀版エヴァ」テーマでもあった。



【2】につづく


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
10月10日(土)より上映

ウォーリー -現代ハリウッドアニメ論- <10>

テーマ:◉ 映 画 情 報【連載】
「ウォーリー」の魅力 -3-

前回、「この作品はアメリカのキャラクター造形の新しい時代の到来を予見させる」ということを書いたが理由は他にもある。前回と同じく世界設計の話になるが、

この作品に出てくるロボットは喋らない。

片言ぐらいなら、喋る事が出来るが、会話が出来るほどではない。
これは、人間の手で作られたロボットという設定を絶対に曲げないように物語を進めるという、制作者の意向のものであるのだろうが物語の8割方ウォーリーとイブの物語であるにもかかわらず、2人の会話と言えば『イブ!』『ウォーリー!』とお互いの名前を呼び合うのがほとんどである。

しかも、イブに出会うまでの数分間はウォーリーしかいないので、
ほとんどサイレント映画のそれと同じである。

現代のメジャー系エンターテイメント作品において、これほど挑戦的な作品制作ができるのはまれではないかと思う。これは、観客のアニメーションへの寛容さの現れだろうか。とにかく、この作品を見る子供たちには映画による良い情操教育になることだろう。

人間の世界 と ロボットの世界

話は戻るが、この作品の人間のキャラクターはロボットとは会話しない。ロボットはロボット、人間は人間と、独立した世界である(現実の世界と同じ)。ウォーリーとイブの関係を知る由もないし、邪魔も干渉もしない。ウォーリーたちロボットも同じく、人間にほとんど干渉せず、自分の意志に忠実に行動する。

このことによって物語が全くぶれないのだ。
物語上「人間がロボットに干渉しない事」が逆に、映画構造上(モンタージュの上で)「干渉し合う」ことになる。つまり、物語の構成要素すべてがウォーリーの一喜一憂に収縮していくという事態になる。

観客は、物語が進むにつれて暗闇にピンと貼った糸の上を歩くような緊張感と集中力を強いられる。そして、ウォーリーとイブがお互いに名前を呼び合うという積み重ねに、感情の高ぶりを押さえきれなくなる。

こんな素敵な体験ができる映画はなかなか無い。


(C) WALT DISNEY PICTURES
PIXAR ANIMATION STUDIOS. ALL RIGHTS RESERVED.

ウォーリー<日本語版>
12月5日(金)公開 〜 1月中旬終了予定

ウォーリー -現代ハリウッドアニメ論- <9>

テーマ:◉ 映 画 情 報【連載】
「ウォーリー」の魅力 -2-

アメリカ人の作るキャラクターには固定観念に縛られたデフォルメや、
世相を反映したシニカルなキャラクターが多いと思う。

しかし、ウォーリーに出てくるキャラクターにははそれがない。
これは、アメリカのキャラクター造形の新しい時代の到来を予見させる。
(もしくは、PIXARにおいてのみ?)

この映画に出てくるロボット、キャラクターはすべて自然なのである。
不可解にパースを歪ませて、アニメらしい表現をしたりはしない。
特に、ウォーリーについてはそれが特化している。

CGで作られた無機質なロボットを、感情移入できる魅力的なキャラクターにする為に根本的なルール(世界設計)がなされている。その丁寧さは特筆物だ。

1、作品全体を通して、ロボットの可動域以上の動きは絶対にしない。
2、人間がエネルギーを蓄える為に食料を補給するように、ウォーリーも太陽電池によってエネルギーを補給する。
3、ウォーリーの体が壊れたときは新しいパーツを付け替える。


以上、3つがウォーリーの約束事であり、序盤に分かりやすく映像で説明してくれる。
そのことによって、ウォーリーが人間と同じように制限があり「有限」である事を示している。

つまり、へたをしたら死ぬ(壊れる)ということもあり得る訳だ。
これを感覚的に理解させられてしまう訳だから、否が応でも感情移入の度合いは高まっていき、ウォーリーの行動によって、見ている人の心に揺さぶりをかける。

そして、ラストシーン。
「WALL・E」という総称を持つ1ゴミ処理ロボットでしか無かった「ウォーリー」が個としての存在を確立するカットがある。
この作品は、キャラクターの存在定義を最後の最後で行う。


このカットによって、見ている人の心の奥底に、
一個の生命としての「ウォーリー」が深く刻まれる事になる。
それが、とても美しい。


(C) WALT DISNEY PICTURES
PIXAR ANIMATION STUDIOS. ALL RIGHTS RESERVED.

ウォーリー<日本語版>
12月5日(金)公開 〜 1月中旬終了予定

ウォーリー -現代ハリウッドアニメ論- <8>

テーマ:◉ 映 画 情 報【連載】
「ウォーリー」の魅力 -1-

この「ウォーリー」というキャラクター。
質の高いアニメや漫画に目の肥えた日本人ならば、スチールを見ただけでは全く可愛いとは思わないのではないか?

と、いうよりはなんとなくピンと来ない。
これは、アメリカ人との感性の違いだろうか。

ETのロボット化ともとれるような印象のスタイルにはとっつきにくさを感じてしまう。
(日本のロボットといえば人型が通例だろう)

だが、実際に動いている姿を見た瞬間、
そんな文化の垣根を悠々と超えてしまう魅力がウォーリーにはあった。

まずは、見た目から

このロボットは意外と小さい。大きな猫ぐらいだろうか。
そんな小さな体にゴミをキューブ型に出来る機能がついている。

本来、ゴミを処理する為に作られた体にしては、小さすぎる。
その小さい体でせっせと働く姿に何とも言えないけなげさを感じる。

ロボットアームは物をつかむ為だけに出来ている。
キャタピラ型の足はでこぼこ道を進む為だけ...。

日本のジャズドラマーに富樫雅彦という人物がいるが、彼は交通事故によって、
下半身不随になった。その後、パーカッショニストとしてまたドラム演奏を始めたが、
彼は「自由になれた」と話した。

ある種の制約に縛られた時、特定の意思・行動が純化されていく。
そこに、生命の尊さ、生きる力を感じる。


この映画において、ウォーリーの行動動機は「イブ」という存在そのものである。
それは、恋愛感情などという複雑なものではない。もっと単純である。

「イブと一緒にいること」

その為だけに奔走する。制約に縛られた小さな体で。
それだけでも涙が出る。


(C) WALT DISNEY PICTURES
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ウォーリー<日本語版>
12月5日(金)公開 〜 1月中旬終了予定

ウォーリー -現代ハリウッドアニメ論- <7>

テーマ:◉ 映 画 情 報【連載】
フルCGアニメーションの一つの到達点としての「ウォーリー」

ウォーリーが完成した事によって、CGアニメは完成に至ったという印象を得た。
いや、まったくPIXARという制作会社はすごい。

ワーナーやドリームワークスも独自のCG創作技術を持ってはいるものの、実際はPIXARがCGテクノロジーを牽引していると言える。

なぜ、PIXARが頭一つ抜け出す形になっているかというと、新作の制作毎に必ず、技術的な挑戦(CGソフト開発含む)を行うということである。

前作から格段の進歩が見られるのは、「空気感」と「汚れ」のリアリティの追求である。
これによって、もはや人の脳ではCGをCGとして認識出来ないほどのクオリティを生み出してしまった。

全く恐ろしい。
CGという無機的なものに、情感すら覚えてしまう。

PIXARは常に3作品程度のCGアニメの映画製作を行い、それを年1回のペースで公開しているので、毎年PIXAR作品を見る事によってテクノロジーの進歩を体験できてありがたい。

PIXARの挑戦はまだまだ続く

次回作「UP(原題)」はなんとフル3Dアニメーションになるという噂だ。
(3Dメガネをかけて鑑賞することになる?)

UP(原題)

今年(2008年)に公開した3D映画「センターオブジアース」を皮切りに洋画配給は本格的に3D映画の制作に乗り出すそうだ。3D映画が定着するのかどうか。楽しみなところだが、質の高い作品が生まれる事によってアトラクション型映画というジャンルが誕生するかもしれない。

PIXARが3D表現に希望を見いだしているとしたら、それは素晴らしい。
是非期待したい。



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ウォーリー<日本語版>
12月5日(金)公開 〜 1月中旬終了予定

ウォーリー -現代ハリウッドアニメ論- <6>

テーマ:◉ 映 画 情 報【連載】
セルアニメーションとCGアニメーションの創作相違 -2-


「現実空間の再現」

CG技術の最終到達地点。
今の段階では本物と見まごう精巧な人間をCGで創作するまでには至っていない。

(目が違う。あのガラス玉の向こうには果てしない虚無が広がっている)
魂の創作。それが出来るとき、すべてを作り出すことが出来るかもしれない。
ただし、その最終地点が映画にとって、希望であるのだろうか。


それに比べて現在のアニメーションにおけるCG表現は、ソフト開発による技術革新によって、セルアニメーションの効果や補助としてのCGから、アニメーション空間をCGで作るなど、表現の幅は多岐にわたってきている。

そして、現在のフルCGアニメーションの躍進と定着には、セルアニメーションの創意工夫が下地があるのが大きい。フルCGアニメーションとは、クレイアニメーション(人形アニメ)の進化ではなく、セルアニメーションの進化系だと言える。「平面の絵を空間的に見せること」その限界が取り払われた事で、アメリカのアニメーターは表現の自由を手に入れた。

実写のモーションをトレースする事によって形作られたアメリカのセルアニメーションがその手法の限界を知った時、自由を求めてCGに移行したのは当然のことといえるだろう。

では、CG表現こそアニメーションで一番優れているのかと言えば、そうではない。
CGは万能に見えるかもしれないが、結局使うのは人間なので使い方は無限ではない。
そう考えると、アニメーションにもセル、クレイ(人形)、切り絵などいろいろあるが、CGも一つの表現媒体として数えるのが一番しっくりくる。

人間が使うという限界のもと、
機械に「使われる」のではなく「使う」という事を忘れてはいけない。



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ウォーリー<日本語版>
12月5日(金)公開 〜 1月中旬終了予定

ウォーリー -現代ハリウッドアニメ論- <5>

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セルアニメーションとCGアニメーションの創作相違 -1-

アメリカのセルアニメーションの制作方法は昔から、一度役者に演技をしてもらい、その動きをトレースする事によって滑らかな動きを作ってきた。
(今もその方法を取っているかどうかは分からないが)

その実写映画の代用ともとれる徹底したリアリズムは、アニメーションになるとグニャグニャと動きが見えすぎるという事もあり、全く別次元の世界構築の表現手法=アニメーションanimationとなった。

一方日本のセルアニメーションは、作画枚数の制限などから、全くの「無」からリアルに見える為の動きを模索した。
いわば漫画のアニメ化といえる手法は、アンリアルを錯覚によってリアルに見せることに成功した=アニメanime


そして、CGアニメーションの登場となるのだが、これは、機械の制御によって3次元を制御できるので、平面を立体的に見せる事ために想像力が必要だったセルアニメーションとは全く別次元の想像力が必要となった。いや、平面で必要だった想像力を機械が補ってくれるようになった。

特に、CG技術の過渡期であるだろう1995年〜2000年初頭のCG技術を使った作品(主に劇映画)はテクノロジーの進歩とともにCGをより実写(現実)に近づける為に使用された。最近はもうどこまでCGが使われているのかも分からないほどクオリティが上がっているが、この時期は、CGであることが分かってしまうので、そういうシーンが出ると拍子抜けしてしまったものだ。


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12月5日(金)公開 〜 1月中旬終了予定
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